PHOTOGRAPH CLASS

1.

各自が撮った(用意した)写真を世の中の人に見てもらう、使ってもらうには?という内容で、他人が、もしくは自分が、いろんな意味で(特に経済的に?)幸せになるには?というようなことを考える写真の授業。メインホスト?先生は写真家の澁谷征司さんと僕。

その基準?文化を成すためにそれは必要か否か…と学校からの命題(難しい、難しすぎる)。でもそれは見た人、他人が決める評価の結果だと思うので、先ずは作る人が好きに完成予想図を思い浮かべればいいと思う、個人的にはそう思う。

すでに、たくさん写真を撮ってる学生もいれば、そうでない学生もいて、じゃあ僕の仕事は?というと写真をあまり撮ってないけど、よく仕事で写真を扱う。と、どうやらこの授業は、自分で写真をたくさん撮るということで解決するんじゃないのかも。という授業がはじまりました。

僕は何か作るために写真を用意する、一方で「澁谷さんは?」と聞けば「何か作るために写真撮るのは、どちらかというと、つまらない」という。この違いをどう捉えるかもポイントになりそう。





私感、これテキスタイルと似てる? 生地を作る、後は他人がその生地を使って加工する、ここまでをテキスタイル。テキスタイルデザインして更に自分で加工する、モノを作る、テキスタイルは過程の1つ、と後に続けることでテキスタイルデザインと呼ばれない?純度的なこと?

写真を写真集に収めたり額装して飾ることを純粋絵画・ファインアートとすれば、今回これからの授業15回で考えることは不純行為…というのは極端な考え方だとしても、斜めから真正面に向き合うこと(僕はそう考えてる)良くいえば、新しい地平を探す大変有意義な作業。

となるけど、澁谷さん曰く「たかだか半年で、できるはずがないよ。ということをやる授業」全くもってその通り。続けて曰く「でも若い子、学生にしか出来ないことかもしれない」とその突破力の説得力、たしかにそうかも。と学生に交ざって自分も作ることにする。突破力を欲して。

ところで澁谷さん、生徒をみんな名前で呼ぶ、下の名前で。しかもこんなルックス・見た目で。僕もそうしてみる、授業の一番のハードルは僕にとってこれかもしれない。



さて、先日のオリエン後11人が履修してくれてスタート。全員が女子。他クラス、タナカカツキさんのマスプロダクト・グッズ制作授業。他スマホゲーム制作授業。フィールドワーク授業(は鹿狩り、山伏修行の合宿をする。これ僕がエントリーしたい)と、写真の授業。(先生方の名前をちゃんと調べてから加筆します…)全70名くらい?のうちの11名、なんだか責任を感じる。

授業始まって挨拶、予定調和的なものをあまり持ってないことを伝えて、してみたいこと、自分に今出来ることを話し合う。ぼんやりしたそれを学生1名に突っ込まれ、おじさんふたりやや本気で会話することになる。期待してるとこ、期待できないとこ、予算の話にいたるまでを僕たちがややむきになって話す。そのお陰で、よくある打合せの事無きを得るという以上の、あーすっきりした、みたいな授業で初回が終わる(終わった気がする)

授業後の印象的なこと。卒業が近い3年生、何名かは自分の表現に向き合っていて、その学生との会話自体が自分のアイデア出しになってると気付く。あと、お仕事できるレベルという学生もいたりする。

おまけの報告になってしまうけど、もう1つの1年生のクラス。自分の過去の仕事を見てもらい、それらこれ使って作ってるよ、という話をする。そういう訳で、イラストレーターとフォトショップの使い方を話す、で初回を終える。